6.小浜線
小6から中2年の夏にかけて、鉄道仲間との撮影行に何回か出かけました。同好の士との撮影行も楽しいものですが、趣味が深まってくると、色々と面倒なことが起こってくるもので・・・。私以外の二人の意見が噛み合わずに 「三人旅の一人乞食」 みたいなことになって、間に挟まって嫌な思いをすることもありました。
そんなこともあって、いよいよ一人旅の始まりです。1970年(昭和45年)、中学2年の冬休み、当時、大阪の宝塚に住んでいた叔母の家に遊びに行くことにして、そこから日帰りで関西方面各地の撮影行に出ようと画策しました。
この旅の最初の目的地が東舞鶴で、小浜線のC58をカメラに収めようということでした。小浜線は北陸本線・敦賀と東舞鶴を結ぶ延長:84.3㎞の路線で、東舞鶴からは舞鶴線となって山陰本線の綾部と結ばれています。
昭和45年(1970年)の年末、東京駅から山陰本線のどこかへ向かう夜行急行列車に乗りました。この列車はおそらく 「出雲」 だったと思いますが、確信は持てません。
人生二度目の夜行列車はA寝台ではなく、普通座席車の直角椅子。それでも、人生初の本格的一人旅で、発車前から心躍らせていました。硬いシートに揺られて車中で一晩過ごし、翌未明、山陰本線の綾部乗り換えで東舞鶴へと向かいました。
少年の一人旅とて、親は心配して 『人を見たら泥棒と思え』 的なことをいわれましたが、たまたま乗り合わせた若いサラリーマンがとても良い人で、14になったばかりの私としては 『人を見たら友達と思え』 と心に刻んだ次第。
東舞鶴・松尾寺間で早朝撮影したC58が牽く旅客列車
年末年始の寒い時期とあって、父はカイロを持たせてくれました。カイロといっても今のように揉むだけで発熱するような簡単なものは未だなく、ピカピカ輝く鏡面仕上げの金属ケース(縦横20㎝×15㎝、厚さ2㎝程度)の中にアルコールを含ませた綿と白金触媒が入っていて、それに火を点けてゆっくり燃焼させるもので、この金属ケースを更に布袋に入れて使うという大がかりなものでした。で、写真の撮影ポイントに着いてからマッチで火を点けようとしたんですが、低温と風のせいで、なかなか点火できなかったことを覚えています。
それに、今のように24時間営業のコンビニなんてない時代ですから、早朝の到着だと朝食にありつけないことがありました。当時、旅行中の朝飯は、駅弁、駅そば、駅の売店、駅前食堂に頼るしかなかったんですが、早朝だとたいてい開いてない。これも旅行好きだった父の知恵ですが、ご飯の缶詰を持って行けと教えられました。ご飯の缶詰は今でも防災用品コーナーなどで売っていますが、五目飯、鶏飯、カレーライスなどがあります。出発前に沸騰した湯で十分煮ておいたら、翌朝、まだ暖かかったです。
山陰本線・福知山駅のホームから撮影したC11の入替え作業
小浜線での撮影を終えた後は福知山線の列車に乗るため、綾部経由で山陰本線・福知山へ。上の写真は、福知山駅のホームから撮影したものです。C11等のタンク機関車は、大きな駅や操車場での入替作業に多用され、この写真のように、自身より大きな貨車を推したり牽いたりしているシーンをよく見かけました。
私が最初にC11を見かけたのは、前年夏に母と妹3人で熊本県の天草へ行ったときのこと。往路の 「みずほ」 の車中から撮った写真の中に何枚か写っていましたが、例のハーフサイズカメラ故、ブレていたりボケていたりで、使えるものは1枚もなし。
復路、熊本駅で 「みずほ」 を待っていると、入替え用のC11が大きなドラフト音を轟かせ、15輌編成のブルートレインを渾身の力で推進してきましたが、カメラは既にカバンの奥で写真はなし。ということで、上の写真が初めて撮れたまともな写真です。
この後、DD54が牽引する福知山線の快速列車に乗り、すっかり暗くなった頃、宝塚の叔母の家へ無事到着。人生初、夜行一人旅の長い一日が漸く終わりを告げました。
7.播但線
関西日帰り撮影行の第二弾は、播但線のC57です。播但線は、山陽本線の姫路と山陰本線の和田山を結ぶ、延長:65.7㎞の路線です。
播但線・仁豊野(にぶの)駅周辺を行くC57牽引の旅客列車
このときは、スマートなC57を側面から撮ろうと思い、割とストレートな線路が続くこの区間を選んだんですが、行ってみると電信線や建造物が邪魔してサイドショットは全てボツ。仁豊野は姫路から4つ目の駅で、地方都市から8.2㎞離れた場所とはいえ、結構、建物があったんです。
45年前の当時でも、既にお立ち台と呼ばれる撮影ポイントのガイドが雑誌に載っていて、播但線では長谷・生野間の勾配区間が有名でした。しかし、姫路から生野までは40㎞以上あって効率が悪いことと、「わざわざ遠くまで行って人と同じ写真を撮るのも癪だ」 という天邪鬼精神から、国土地理院犯行の1/50000地形図を首っ引きで自ら撮影ポイントを探しました。そうすると、こういうポカも時々ある訳ですが、予想通りの良いポイントに巡り会ったときの達成感はひとしおでした。
まあ、この写真は実に絵画的なものですが、播但線のC57の写真は上のものとこれの2枚しか残っていないので載せておきました。ふんわりとしたスチームの具合が良いと思うのですが?。
この日はとても寒く、北風が吹き抜ける田んぼの真ん中で撮影していたのですが、近くに廃車同然の軽トラを見つけ、無断で運転席に入り込んで列車を待っていました。すると、遠くから持ち主とおぼしき男が近づいて来ます。「こりゃ~、怒られるわい!」 と思い、戦々恐々としてみていると 「ホイール戻しとけよ」 と言い放っただけで立ち去って行きました。実は、運転席には錆びついたホイールが載っていて、それを外に放り出していたんです。もちろん、帰るときには戻しておきました。
当時の播但線下り列車は姫路駅の東3番線でしたが、「本線より格下だから」 と言わんばかりの古ぼけた低いホームでした。この頃の播但線は旅客列車も蒸気機関車の牽引で、途中の寺前止まりの列車を逆向きのC11が牽引して出て行きました。
つまらない話ですが、当時はカセットレコーダーで音も記録していて、「東3番線から、寺前行き発車しまぁ~す」 という駅のアナウンスを想い出したんです。昔の写真を眺めていると、色々な記憶が甦ってくるものですね。
8.関西本線
関西日帰撮影行の最後は、昭和46年(1971年)年明けの関西本線・加太(かぶと)越えのシーンです。
加太駅から中在家信号所方面へしばらく歩いたところで待っていると、D51牽引の貨物列車がやってきました。この路線も、D51の重連運転で有名だったんですが、正月早々(1月2日か3日)ということもあって貨物が減少しており、貨車の減車、列車の運休が相次いでいました。
上の写真の列車が近づいて来ました。
こちらは、加太駅から反対に関方面に歩いたところで撮影した荷物列車です。緩いカーブを列車は軽やかに下っていきますが、気温が低いので蒸気の具合が芸術的?。でも、電柱が邪魔でした。
上の写真の列車が近づいて来ます。そう、ここが狙っていたポイントです。この写真、私の蒸気機関車の写真の中でも一押しです。
高校の写真展に出品したところ、年輩のお客様から 「汽笛の音を聞きながら、野山を駆け回っていた子供時代を想い出した」 「旅情が掻き立てられ、また旅に出たくなった」 というお褒めの言葉をいただきました。このとき、つまるところ写真とは、何らかの形で見る人の心を動かすことができるものだということを悟り、それ以降、深淵なる写真の世界にのめり込んでいきました。
では、また。