模型の方は1輌しかありませんが、旅先での写真は結構ありますよ。
この写真は昭和45年(1970年)、中学2年の冬休み、宝塚の叔母の家にやっかいになりながらの関西日帰り撮影行のときのもので、播但線(山陽本線・姫路、山陰本線・和田山間 延長:65.7㎞)の仁豊野(にぶの)駅周辺での一コマです。このときは、スマートなC57を側面から撮ろうと思い、割とストレートな線路が続くこの区間を選んだんですが、行ってみると電信線や建造物が邪魔してサイドショットは全てボツ。
仁豊野は姫路から4つ目の駅で、地方都市から8.2㎞離れた場所とはいえ、結構、建物があったんです。45年前の当時でも、お立ち台と呼ばれる撮影ポイントのガイドが雑誌に載っていて、播但線では長谷・生野間の勾配区間が有名でした。
しかし、姫路から生野までは40㎞以上あって効率が悪いことと、「わざわざ遠くまで行って人と同じ写真を撮るのも癪だ」 という天邪鬼精神から、1/50000地形図を首っ引きで自ら撮影ポイントを探したんです。そうするとこういうポカも時々ある訳ですが、予想通りの良いポイントに巡り会ったときの達成感もひとしおでした。
まあ、この写真は実に絵画的なものですが、播但線のC57の写真は上のとこれの2枚しか残っていないので入れときました。ふんわりとしたスチームの具合が良いでしょ?。
この日はとても寒く、北風が吹き抜ける田んぼの真ん中で撮影していたんですが、近くに廃車同然の軽トラを見つけ、無断で運転席に入り込んで列車を待っていたら、遠くから持ち主とおぼしき男が近づいて来ます。「こりゃ~、怒られるわい!」 と思い、戦々恐々としてみていると 「ホイール戻しとけよ」 と言い放っただけで立ち去って行きました。実は、運転席には錆びついたホイールが載っていまして、それを外に放り出していたんです。もちろん、帰るときには戻しておきました。つまらない話ですが、こういう記事を書いていると色々なことを思い出しますよ。
次は、ボイラー上のドームの後ろに角ばった重油タンクを背負った重装備のC57を撮影したもの。
これは昭和46年(1971年)夏、関西本線の亀山機関区での一コマです。手前に写っている集煙装置と重油タンクを取り付けた148号機は貨物列車を牽き、引き上げ線を亀山駅に向かってゆっくり動いています。その横を、旅客列車を牽いた別のC57が足早に追い抜いていくという、鉄道模型のレイアウト上でのシーンのようでした。2輌のC57が一枚の写真に収まるかどうか気が気でなかったんですが、一呼吸前でも後でも収まらない絶妙のタイミングで撮影に成功しました。
関西本線の亀山駅は紀勢本線の分岐点でもあり、関西本線ではC57を使っていなかったので、この2輌はいずれも紀勢本線での仕業に就いていたものと思われます。
この年の夏は、日本の旅客用蒸気機関車の最高峰、C62の重連が活躍した函館本線・急行 「ニセコ」 の最後に当たっており、中2の夏に小海線の撮影行に連れて行ってくれた鉄チャン仲間から誘われていました。しかし、この年は中学3年の受験生でもありました。
一応、親には切々と訴えてみたものの望みが叶う訳もなく、断腸の想いで諦めました。しかし、この夏休みには8才年下の妹が四国の叔母のところに預けられており、迎えに行ってくれとの話が舞い込んできました。そこで、これ幸いと夜行列車に飛び乗り、関西本線の撮影行となりました。
続いては、1972年(昭和47年)夏、二度目の九州撮影行で出会ったC57たちです。
8620形の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/yamaoyag1956/13794909.html)にも書きましたが、肥薩線・大畑(おこば)のループ線とスイッチバックを見るため、前夜に乗ったC57牽引の臨時急行 「ひとよし」 が、早朝、終着の人吉駅へ到着したところです。8月でこの影の長さですから、朝もかなり早い時間だったと思います。
写真左下に、カップルとおぼしき二人の影が写っているのにお気付きでしょうか?。さらに、その下には二人のリュックサックも置かれていて、旅情を掻き立ててくれます?。手前味噌ですが、この秀逸な一枚には、「旅立ちの朝」 というタイトルを付けて高校の文化祭に出品しましたが、その意味するところに気が付かれた人がいたかどうか?。
真夏の九州のC57は、あと3枚続きます。
日豊本線・青井岳付近
日豊本線・隼人駅
日豊本線・宮崎駅
最後は1973年(昭和48年)、高校2年夏の北海道撮影行で出会ったC57です。
夕陽を浴びながら、室蘭本線・栗山付近を行く旅客列車。ここは、意に反して有名撮影地です。
前の記事に載せたこの写真は、上の光景をイメージしたものだったんですが、如何でしょう?。
1975年(昭和50年)12月14日、岩見沢第1機関区に所属するC57-135が室蘭本線・室蘭、岩見沢間で国鉄最後の蒸機牽引旅客列車となる225列車を牽引し、その栄光の歴史に幕を閉じました。
では、また。