2月4日から書き始めた鉄模ネタも今日で22回目、ということは1日1件強書いているということで、我ながら驚異的なスピードだと思います。何故こうなったのかということを考えてみても良く解らないんですが、内なる何かに 「人生がいつまでも続くと思ったら大間違い、今のうちに自分史をまとめておけよ」 と背中を押されている気がしてなりません。
そんなことを考えていたら、土曜日の朝のワイドショー番組で 「終活」 がテーマの一つに採り上げられていて、次の世代に残す遺産といえばお金や不動産ということになるが、そういうものがない場合はどうしたらいいのか、というようなことが議論されていました。
その中で、我々の世代のアイドル、アグネス・チャンさんが 「私は 『個人的文化遺産』 を残したい」 と仰いました。個人的文化遺産とは、例えば、趣味で作った洋服とか絵画とか料理のレシピとか、そういったものだって個人の立派な文化遺産です。つまり、お金や不動産ばかりが遺産じゃない、ということ。
それを聞いて、単純な私は 「そうか、今やっているこれも、自分の文化遺産を作っているんだ」 と理解した次第。
という訳で、鉄模ネタはまだまだ続きます(AFVマニアの皆さんゴメンナサイ)。今回はC55です。
『C55形は、国鉄の前身である鉄道省が設計した亜幹線旅客列車用中型テンダー式蒸気機関車の一つである。
1930年代に入ると、亜幹線の旅客輸送力強化を目的として、丙線規格の路線に入線可能なC51形の後継機種の製造が計画された。しかし、最初に設計されたC54形(1931年)は、ボイラー圧力の高圧化と過度の軽量化に起因して空転を頻発するなど、乗務員からの不評が殺到し、わずか17両で生産が打ち切られていた。
そこで、丙線規格の各線で不足する旅客列車用機関車を補うべく設計されたのが本形式である。本形式は、C54形の失敗を教訓としつつ、より新しい技術を取り入れたものであった。
本形式は内地向けには1935年(昭和10年)に製造が開始され、3次に分けて合計62両が製造された。63号機以降も一部設計変更のうえで本形式が増備される計画であったが、当該設計変更が多岐に渡ったことから、63号機に相当するもの以降には、C57形という新形式が付与された。
本形式が登場した時代は世界各国で鉄道車両や自動車の流線形ブームが起こっていた。これは美観とともに高速化に伴う空気抵抗を減らすことを目指したものであった。その流れに沿い、C53-43で試験された流線形構造が本形式にも本格導入され、1936年製の2次車(C55-20~40)の21両は流線形デザインにて新造された。』 【Wikipedia より抜粋】
以前、Nゲージ鉄道模型のリストを作ったときには、KATOの標準型と門鉄デフ付き各1輌、マイクロエースの流線型が1輌、計3輌が在籍していたんですが、KATOのモデルは例によって 1/140 のオーバースケール。これに嫌気がさして、マイクロエースの流線型とともに売ってしまいました。
これがKATOの標準型。プロポーションもバランスも良く、走りも良好だったんですけどね~・・・。
まあ、模型の方は皆無ですが、思い出の写真はありますので次の記事で・・・・。
― (その2)へ続く ―