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Channel: 村の模型屋のブログ
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「煙の記憶」 その7

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10.伯備線

  1972年(昭和47年)、中3と高1の間の春休み、親戚の家に泊まらない初の単独九州撮影行に赴きました。伯備線には、この撮影行に併せて初日に訪問しました。
  伯備線は、山陽本線の倉敷から山陰本線の伯耆大山(ほうきだいせん)に至る延長:138.4に及ぶ路線で、山陽地方と山陰地方を結ぶ陰陽連絡路線の一つでもあります。倉敷・新郷間は高橋川水系、上石見・伯耆大山間は日野川水系に沿っていて、全線にわたって曲線と急勾配が多く、D51の重連・三重連の運転でも有名でした。
  このときは高校進学のお祝い金も入っていたので、東京から岡山までは新幹線、岡山で伯備線の気動車に乗り換えて新見へというルートでした。午後、新見駅に着き、先ずは機関区を訪れました。

イメージ 4
ラウンドハウスを出て出区線に待機中の195号機

  新見機関区には大きなラウンドハウス(扇形庫)があり、上の写真にも、機関車の左後方にターンテーブル(転車台)とラウンドハウスの一部が写っています。

イメージ 5
ラウンドハウス内には、集煙装置付きのD51が並んでいました。

イメージ 6
上の写真を拡大しました。428号機だけが何故か手入れが行き届いていて、煙室
扉はピッカピカ。大型の集煙装置が付くと、武骨な山男の感じがして良いです。

イメージ 7
屋外に停まっているD51をラウンドハウス越しに撮影。新見の機関庫は本当に大きかったです。

  機関区訪問の後は、早めに宿へ。これまた初の外泊です。
  今はもうありませんが、当時、駅の近くにあった旅館開放型のユースホステルで、つっけんどんな応対、古くて寒い部屋、貧弱な食事と三拍子揃った宿でした。その替わりと言っては何ですがルールもユルユルで、相部屋となった大学生2人と汽笛を聞きながら夜遅くまでダベっていたり、唯一の暖房器具である炬燵をつけっぱなしにしてその中に足を突っ込んで寝たり、と結構楽しい初外泊でした。

イメージ 8

  今となっては、撮影場所の特定は困難ですが、周囲の状況から伯備線の沿線であることは間違いありません。おそらく、備中神代駅から布原信号所方向へ少し戻った所だと思います。

イメージ 9
バック運転でやって来た前の写真の列車が、眼前を通過して行きます。

  伯備線といえば、何といってもD51の三重連が有名で、布原信号所付近は絶好の撮影ポイントでした。しかし、私が訪れる直前の1972年3月12日、残念ながら三重連の運転は終了していました。
  それでも、前部又は後部補機による重連運転は続いていて、後部補機を一緒に入れた形で写真を撮りたいと思い、開けた場所で大きなカーブのあるポイントを地図で探しました。その結果、白羽の矢を立てたのが備中神代です。ここには、伯耆大山方面に向かって駅を出るとすぐに、右にほぼ 90度向きを変える大きなカーブがあります。

イメージ 11

  そのポイントで撮ったのが上の写真です。かなり長い貨物列車で、後部補機(しかも逆向き)も入れて撮るのに苦労しましたが、本務機が通り過ぎる寸前のタイミングで、目論みどおりの写真が撮れました。こういう編成を後部補機重連と言い、童謡にも歌われた 「機関車と機関車が前牽き後押し♪」という状態です。因みに、補機とは補助機関車のことで、先頭に立つのが本務機。編成や線区の状況によって前部補機と後部補機とを使い分けるようです。

イメージ 10
夕刻、備中神代駅を出発するD51前部補機重連が牽く貨物列車。

  この写真を撮り終えて、次の目的地の北九州に向かうために岡山行きの列車に乗りましたが、ここで大事件が発生しました。伯備線の列車は、倉敷から山陽本線の上り線へ入って岡山へと向かうんですが、岡山駅に着く直前、踏切で立ち往生していた車と衝突しました。
  私は、先頭の気動車に乗っていたんですが、突然、急ブレーキをかけたかと思うと、ガガガガガーという大きな音と振動・・・。間もなく、誰かが 「車が下敷きになってるゾ~」 と叫ぶ声も聞こえてくる。
  窓を開けて下を見ると、台車付近にテールライトをつけたまま裏返しになった自動車の後部が見えました。車の中央部は台車に巻き込まれてグシャグシャになっていましたが、幸いドライバーは無事。
  岡山からは、東京発・西鹿児島行きの急行 「桜島」 に乗り継ぐ予定でしたので、いつになったら復旧するのかと気が気ではありませんでした。その後、列車は台車の下に自動車を噛み込んでいること、周囲は田んぼで重機が入れないことが判明し、これでは 「桜島」 への乗り継ぎは無理か?と考えながら待っていました。
  この事故で山陽本線の上り線は不通になっていますが、下り線は何ともないので、「桜島」 は定刻どおりにやって来るようです。この頃は現在のように、事故が起こったら周辺の全列車が緊急停止するようなシステムはなかったのです。
  その晩は岡山泊まりかと覚悟しかけた頃、気動車は最徐行で動き出しました。幸い岡山駅の近くだったため多くの作業員が集まり、人力で下敷きになっている車を引き出したとのこと。
  そして気動車は、無事岡山駅のホームへ。それと間髪を入れず、向かい側の下りホームに 「桜島」 が入ってきました。脱兎のごとく駆け出して跨線橋を渡り、なんとか 「桜島」 への乗り継ぎに成功しました。
  元々、岡山でゆっくり夕食をとろうと思ったのと、北九州までの距離が近いために岡山発が一番遅い 「桜島」 を選んだことで、乗り継ぎには2時間ぐらいの余裕があったんです。それで、なんとか間に合った訳ですが、岡山では何も買えず、その先は深夜になるのでホームの駅弁売りも居なければ、車内販売も無し。この日の晩飯は、とうとう食いっぱぐれました・・・。

  翌朝、「桜島」 は定刻どおり九州へ入りました。当初はこれで博多まで行くつもりだったんですが、夜汽車の直角シートに揺られてヘトヘト。それに加えてお腹もペコペコ。
  予定を変更して黒崎で下車し、ホームの立ち食いそば屋で名物の 「かしわ(鶏)うどん」 を食べ、漸く人心地つきました。次の電車で博多まで行ったんですが、まだ疲れが残っていて、下車するとすぐにホームのベンチにへたり込んでしまいました。
  乗って来た電車も博多に10分ぐらい停車していて、それを見送ってしばらくしてから立ち上がると何かおかしい。カメラの入ったショルダーバッグは携えているものの、リュックサックがない!。
  「しまったぁ!、電車に置いてきちまったぁ~」 と嘆いてみても、もう遅い。仕方なく、駅員室に駆け込んで事情を説明すると、程なくして荷物は無事発見されました。「鳥栖駅で降ろしたから、急ぐのであればそちらへ取りに行ってくれ」 と言われ、一も二もなく鳥栖へ・・・。
  30分ほど電車に揺られ、鳥栖駅で荷物を受け取った後、まだ時間があるので博多から篠栗線経由で筑豊へ向かおうと、上り電車に乗ったんですが爆睡してしまい、気が付いたらまた黒崎。今日はもう無理だぁ、と諦めムードでまたもホームの 「かしわうどん」。記念すべき九州一人旅の第一日目は、鹿児島本線を行ったり来たりしただけで宿へ・・・。
では、また。

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