「煙の記憶」 は、前回までの 「鉄道模型」 シリーズの記事から旅の想い出話だけを抽出し、視点を変えて旅行記風にまとめ直していくものです。写真の追加、文章の加筆修正はあるものの、「鉄道模型」 シリーズに綴った内容と概ね同じものになると思います。従って、既にそちらをご覧いただいている方は二度手間?になるので、スルーしていただいて結構です。しかしながら、これは私の 「個人的文化遺産」 といえるものですので、ご容赦いただきたく・・・。
1.八高線
私が本格的に蒸気機関車の写真を撮り始めたのは1968年(昭和43年)、小学6年夏の八高線でした。夏休みの自由研究の課題として 「消えゆく蒸気機関車」 を採り上げたところ、父親が鉄道関係の雑誌を買ってきてくれました。それを見ると、東京近郊の八高線に蒸気機関車が走っていることが判明しました。
八高線は、中央線・八王子駅と高崎線・倉賀野駅を結び、延長92.0㎞に及ぶ路線です。当時の我が家は東京都中野区の西武新宿線沿線にあり、所沢乗り換えで八高線の東飯能に行けることも判り、早速、共同研究者?のM上君と取材に出かけました。
C58-217 高麗川駅にて。初めて八高線の撮影行に出かけたときの記念すべき1枚です。
父親に買ってもらった自分専用のカメラ、ハーフサイズのオリンパスペンEEに当時高かったカラーフィルムを入れ、勇んで撮影したんですがボケボケ・・・。1961年(昭和36年)発売のこのカメラは、「広角気味の固定焦点」、「シャッタースピード1/60秒」、「露出は絞りの自動調整」 という、操作が簡単なことだけが取り柄のような代物でした。要するに、後年、バカ売れしたフィルム式簡単カメラ(商品名:写ルンです)と大差ないものでしたが、当時の価格は10,000円。現在のコンパクトデジタルカメラと価格的には大差ないですが、性能面では比較にもなりません。
当時の八高線は貨物輸送が主体で、主力はD51でした。以下の写真、はカラーをモノクロに変換してみましたが、結果は大差ないようで・・・。
東飯能駅にてD51-876+D51-515の重連。初めて見たD51の重連に舞い上がってしまい、
こんな間抜けな写真になりました。しかし、最初の頃、ナンバーは律儀にメモしていました。
上の重連の発車シーン
ハーフサイズカメラでは、このぐらいが限度でしょうか?
ハーフサイズカメラに限界を感じた私は、この後、専ら父親の35㎜一眼レフカメラ、ミノルタSR-1(SRシリーズの初代)を借りて撮影行に出ることに。八高線は日帰りができたので、以後、数回訪れています。
この写真は、別の日に高麗川駅で撮影したC58-211です。やっぱり、35㎜一眼レフは良い。
これもC58のようですが、ナンバーまでは確認できません。
年が替わって1970年(昭和45年)9月27日、高崎・高麗川間でC58とD51の重連が牽引する 「八高線 さよならSL号」 が運転されました。
C58-309とD51-631の重連が牽く 「八高線 さよならSL号」
撮影場所は高麗川・毛呂間で、画面の左右は切通しになっています。現在、埼玉医大がある場所の北方ではないかと思われます。
同一ポイントで撮った普通気動車。
国土地理院発行の1/50000 地形図で絶好のポイントを見つけ、高麗川からタクシーを飛ばして現地へ・・・。蒸気機関車最後の運転とあって、当日はいたるところに鉄道ファンが押しかけていましたが、この場所は幸い2人だけでした。
しかし、上の写真左右の木に隠れたところにはファンがわんさか・・・。それが一人でも築堤上に出ようとすると、一緒にいた強面のお兄さんが 「バカヤロー、出るんじゃね~、引っ込め~」 と怒鳴ってくれる。気弱な私だけだったら、こうはいかなかったですね。
2.熊本機関区
1969年(昭和44年)8月、中1の夏休みに、母方の祖母の実家がある熊本県の天草へ家族で行きました。そのとき、乗り換えのためのわずかな間に、熊本駅のホームから隣接する機関区のもようを数枚撮影しました。
戦前型のC59から改造されたグループのC60で、16号機であることが確認できます。
小倉工場製の除煙板(通称:門鉄デフ)を付けた 69665。ズングリムックリのキューロクに門鉄
デフという組み合わせは、メタボ・オバサンのマイクロビキニのようで、どうもいただけない・・・。
上の2枚の写真は、またもオリンパスペンEEでの撮影です。不鮮明な写真ながら、ハーフサイズで固定焦点のカメラで撮ったにしては上々ではないでしょうか。さらに、古いアルバムの中の2L版写真からのリプリントということを考えると、まあ上手く再生できたと思います。
このときは、母と妹との三人旅で、東京発・熊本行きの寝台特急 「みずほ」 に乗り、熊本から三角(みすみ)線の気動車に乗り換えました。夜明け前、九州へ入った頃から蒸気機関車が散見され、車窓からも撮影していました。
熊本駅での乗継時間は15分程度だったと思いますが、その短い間に夢中でシャッターを切りました。隣のホームに座り込んで、機関区に佇む蒸気機関車を眺めている男の姿が印象的です。
当時、妹がまだ小学校に上がっていなかったので、母と同じ寝台を使うため、A寝台をとりました。A寝台なんて豪華な車両に乗ったのは、後にも先にもこのときだけです。
東京駅で入線を待っていると、品川方向から後ろ向きにゆっくりと列車が入ってきます。食堂車には、黒の上下に蝶ネクタイの給仕長然とした男と白装束のコックが2人、ウェイトレスが4人ほど、通路に一列に並んで最敬礼したまま微動だにせず、眼前を通り過ぎてゆきます。
この頃、国鉄の食堂車は日本食堂の経営で、これも同社のサービスの一環であったのだろうと思います。しかし、当時の国鉄には、こういう 「おもてなし」 的サービスは殆ど見られなかったため、13歳の少年にとっては初めての経験で、旅への期待は否(いや)が応にも高まってゆきました。
熊本行き3列車 「みずほ」 の編成は、電源荷物車カニ21/1号車(A寝台車)ナロネ21/2~4号車(B寝台車)ナハネ20/5号車(食堂車)ナシ20/6号車(B寝台車)ナハネ20/7号車(B寝台緩急車)ナハネフ23/8号車(A寝台車)ナロネ21/9~13号車(B寝台車)ナハネ20/14号車(B寝台緩急車)ナハネフ22、という20系軽量客車のオール寝台14輌、カニを加えて堂々の15輌編成です。
私たちの寝台は1号車の先頭だったので、隣は電源荷物車カニ21。同車輌は最前部に車掌室があり、その後方、全長の半分以上が 250 kVAのディーゼル発電機2基を搭載する機械室です。車内の冷暖房等に使う電力は、全てここで賄っていおり、更に後部が5t積みの荷物室という構造になっています。
カニ21のディーゼルエンジンの音が結構耳障りで、興味本位で荷物室のドアを開けてみると物凄い騒音。中学1年生ながら、「憧れのA寝台に乗ったのに、これじゃあ台無し。この辺は改善の余地があるな。」 と生意気にも思った次第。
「みずほ」 を牽引する機関車は、東京・下関間 EF65、下関・門司間 EF30、門司・熊本間 ED73ということで、全て電気機関車でした。鹿児島本線の熊本以遠は未電化でしたが、東京発西鹿児島行きの 「彗星」 はDD51の牽引で、蒸気機関車は既に特急仕業から外されていたようです。
では、また。