2形式飛ばしましたが、今回は急行旅客用最後の蒸気機関車C62形です。
『C62形は国鉄の旅客用大型蒸気機関車で、日本史上、最大、最強のものである。1948年(昭和23年)から翌年にかけてD52形貨物用蒸気機関車の改造名義で49輌が製造され、その牽引力や重量から、主に平坦地や軟弱地盤の少ない東海道本線、山陽本線など、輸送量を要求される主要幹線の優等列車牽引に使用された。』 【Wikipedia より抜粋】
我が家の在庫は2輌で、これまたおなじみのマイクロエース製です。
C62-18(特急つばめ)【A9803 '00.03発売】
『18号機は、昭和24年(1949年)1月26日、D52-375 を種車とし製造された。昭和29年に名古屋機関区でスワローマークを取り付けられたが、翌年7月18日に梅小路機関区に転属の際、取り外された。名古屋機関区所属のカマは、ナンバープレートの地が赤色に塗られている。』 【マイクロエースの説明書より抜粋】
スワローマークといえば2号機のスワローエンジェルが有名ですが、2号機のものは少し上を向いているのに対し、これは 「下りつばめ」 と称されるやや下向きのツバメ。
マイクロエースの説明書には、昭和31年11月の 「つばめ」(東京・大阪間)の編成が載っていますが、昭和31年11月は私の生まれ年・生まれ月と同じで親しみが湧きます(笑)。
1号車・三等荷物合造車(オハニ35)、2~5号車・三等車(スハ44)、6,7号車・二等車(スロ54)、8号車・食堂車(オシ17)、9~11号車・二等車(スロ54)、12号車・一等展望車(マイテ38)という、堂々の12両編成です。
1930年(昭和5年)10月にデビューした当時の超特急 「燕(つばめ)」 は、展望車を含む7輌編成をC51形が牽引し、東京・大阪間を8時間20分(表定速度 68km/h)で走破していました。C62形は1950年(昭和25年)10月1日のダイヤ改正時から投入されました。当時は東京・大阪間が8時間と、所要時間は戦前と大差ありませんが、牽引する客車がC51時代の倍近い12輌に増加しています。
マイ38は、元々、皇室御料車の300と301でした。この車両は、軍人の帯同用に製造された供奉(ぐぶ)車でしたが、戦後不要になったため、1955年(昭和30年)に改造されて一等座席車・スイ38になり、1957年(昭和32年)には冷房化されてマイ38となりました。この車両は、主に外国人観光客用として、「つばめ」 及び 「はと」 に臨時に増結されました。
塗色のライトグリーン(淡緑5号)は、1956年(昭和31年)11月、東海道本線の全線電化完成後、全区間をEF58が牽引するようになってから塗り替えられたものです。マイ38は、本来、最後部のマイテ
39の前位に連結されているので、この編成はインチキです。でも、3軸ボギー台車が何とも言えず、無理にご登場願いました。
話が、大分脱線しましたが、もう一輌のC62がこちら。
C62-1 【A4230 '99.12発売】
1999年発売のC62-1・10系客車7輌セットに付属のもので、単品売りはなし。写真が見難いですが、トレインマークは京都・博多間の特急 「かもめ」 です。
確か、1972年(昭和47年)夏、二度目の九州撮影行のときだったと思いますが、山陽本線の小郡(現・新山口)駅に隣接する機関区でイベントがあり、トレインマークを付けた姿でラウンドハウス(扇形庫)に入っていました。このイベントでは、D51三重連の展示運転もあり、モクモクと煙を吐いて短い区間を行ったり来たりするのに見入っていました。
イベント当日は台風が接近していたのか、小郡機関区に到着したときから降っていた雨が時間の経過とともに土砂降りとなり、写真はどれもイマイチで一枚も残っていません。
荒天の中、屋外で写真を撮っているんですから全身ずぶ濡れ。でも、ラウンドハウスの外れに1輌のキハがエンジンをかけたまま停まっていて、そこが休憩室になっていました。中に乗り込むとエアコンが全開になっていて、なんとか生乾き状態にはなりました。
これは、1973年(昭和48年)の冬、高校2年生のときに鉄チャンではない友人二人と行った奈良・京都ツアーの際、渋る友人たちを無理やり誘って行った梅小路蒸気機関車館での撮影です。C62形の写真は、この1枚しかありません。
では、また。