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Channel: 村の模型屋のブログ
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鉄道模型 ⑳ : D50,D60(その2) 旅の想い出

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  まだまだ朝晩は寒いですが、少しずつ気温が上昇しているようですね。今朝、久しぶりに鳥の声を聞きましたし、庭の梅も咲きだしています。

  今回は、D50,D60にまつわる旅の想い出です。といっても、D50の実機写真はなく、目にした覚えもありません。正確な時期は不明ですが、D50は早めに廃車されていたことから、1972年(昭和47
)春の九州旅行の時点では、既に日本の鉄路から消えていたものと思われます。

イメージ 1

  光量不足のために不鮮明な写真で恐縮ですが、これは一度目の春の九州での一コマです。撮影場所は、レールが3セット敷かれていることから、筑豊本線(若松、鹿児島本線・原田 [はるだ] 間 延長:66.1㎞)中間(なかま)駅付近の三線区間であろうと思います。
  かつて、この沿線には直方を中心に大小数多くの炭鉱があり、炭田地帯を形成していました。石炭産業の最盛期、石炭は 「黒いダイヤ」 と呼ばれ、筑豊炭田から産出される良質な石炭を若松港に運ぶことを目的として建設されたのが筑豊興業鉄道で、1891年(明治24年)に若松・直方間が開業しています(1907年、国有化)。
  D60-65の後には、車掌車を挟んでセキ(石炭車)とおぼしき貨車の列が続いています。私が筑豊を訪れた1972年頃は、少なくなったとはいえ、このような石炭列車が頻繁に運転されていて、蒸気機関車の撮影には便利な場所でありました。

イメージ 2

  こちらも同じく中間駅周辺の三線区間、1972年、夏の筑豊本線です。一つ上の写真では良く解りませんが、九州タイプに特有の門鉄デフがはっきり見えます。前の写真が65号機、これが64号機で、前回の記事に載せたマイクロエースのモデルが67号機と近い番号なので、車体の特徴も似たようなものではなかったかと思います。
  写真の背後には、山を切り崩して宅地造成をしている光景が写し出されていますが、この区間は基本的に平坦で、周囲の風景はつまらないものです。しかし、蒸気機関車牽引の列車本数が多いので文句は言えません。

  このときのエピソードが一つ。わずかに写っている一番奥の線路の外側で別の列車を狙っていたとき、未だ4歳ぐらいの女の子と,5歳ぐらいの男の子、兄弟とおぼしき子供が二人、少し離れたところにやって来て線路脇に座り込んで遊び始めました。列車が近づいても子供たちがその場を離れずにいると、列車はゆっくりと速度を落とし、最後はギギギーっとブレーキを軋ませて子供たちの目の前で停まりました。
  何事かと目をやると短声一発。汽笛を鳴らすやいなや機関士がキャブから身を乗り出し、「バカヤロー!、そんなところに座り込んでちゃダメだ~っ。危ないからどっか他所で遊べ~っ!」 と割れんばかりの大声で怒鳴りちらしました。子供たちは弾けるように立ち上がってどこかへ走っていき、列車もドラフト音を轟かせて走り去っていきました。これを 「のんびりした時代だったから、こんなこともあったんだろうな・・・」 と思われたとしたら、大間違いです。
  JRの前の国鉄時代、否、もっと前の時代から、日本の鉄道は定時運行が金科玉条。列車の遅延は乗務員にとって最も恥ずべき事態であるとともに、減給などの処分の対象でもありました。それを解っていながら、幼い子供を守るために禁を破って列車を停止させた機関士の決断と心意気、振り返ってみると称賛に値するものがあります。
では、また。

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