前の記事で散々マイクロエースC12の悪口を言いましたが、非難するためだけに書いたわけではありません。'90年代、業界に参入するや、それまで国内メーカーに成し得なかった日本型蒸気機関車の穴をアッという間に埋め、その後、現在に至るまで、矢継ぎ早に魅力的な製品を出し続ける同社の企画力は称賛に値するものであることは間違いありません。プロポーションに問題があるとはいえ、多かれ少なかれ、それは他社でも同様の問題ですし、なによりマイクロエースの製品は走りが良いことは特筆できる。私のような積んどくだけのコレクターにとっては、どうでもいい事かも知れませんが、本来、Nゲージ鉄道模型は走らせてナンボの世界なんです。
模型話の次は、本題の想い出話などを・・・。
昭和47年(1962年)3月、中3と高1の間の春休み、初めての九州撮影行で阿蘇を越える豊肥本線に乗った訳ですが、熊本で鹿児島本線から乗り換えた列車の先頭に立っていたのは、9600型(大型デフ装備)の重連で、まあ、こんな感じ。
昭和47年当時でも、貨物用のキューロクが本線上で旅客列車を牽く姿は珍しく、ホームで撮影しましたが夕方で雨模様、写真はあえなく全滅。熊本を出発してしばらくの間は鹿児島本線と並走するんですが、なんとそこで鹿児島本線上を行くキューロク重連の貨物列車とランデブー(古っ!)。
力行する4両のキューロクから吐き出される煙はものすごく、曇天の下で雲のように拡がっていきます。今となっては、模型の世界でしか再現できないような光景(煙は難しいけどね)が、この頃にはリアルにあったんですよね。
その後、立野で旧・国鉄高森線(現・南阿蘇鉄道)に乗り換えて終点高森へ・・・。高森町は、広大な阿蘇カルデラの南側に位置する静かな町です。C12は、昭和40年代後半でも専ら駅や操車場での入替用でしたが、高森線では珍しくC12が牽く旅客列車が走っていました。
この写真は高森に向かう旅客列車を撮ったもので、遠景には阿蘇五岳の連山が写っています。
これは翌朝の立野駅の情景で、高森から乗ってきた列車を撮ったもの。左下に見える 「0」 の
表示のある杭は鉄道の距離標(キロポスト)で、高森線の起点であることを示す0キロポスト。
写真の鉄橋は、立野駅から1㎞弱東に行ったところにある大白川橋梁。深い谷底を流れる川面から43mの高さがあり、当時、日本一を誇っていました。初めは、無謀にもこの鉄橋を渡り、対岸からの撮影を試みたもののバックの風景が単調でNG。
写真に見える細い柵の内側、線路との間にやっと一人歩ける幅の板が渡してある。手すりをしっかりと掴みながら恐る恐る渡っていくんですが、43mといえばビルの13階ぐらいの高さですから、下を見ると眩暈(めまい)がしそう。若気の至りとはいえ、よくそんなことをやったもんだ。
対岸の撮影ポイントが思ったほど良くなかったんで、再度、鉄橋を渡って引き返し、小さな神社に入り込んで撮ったのがこの一枚。構図に拘ってみたものの、背景がうるさすぎてこれもイマイチ。カラーだったら、黒っぽい機関車の色が、山の緑、鳥居の赤と良いコントラストを成すんですけどね。
阿蘇周辺でのエピソードの一つが立野駅前の食堂。早朝、朝飯抜きで高森を立ち、2枚上の写真の列車で立野駅に着いた後、腹ごしらえにと駅前食堂に立ち寄りました。カウンターの奥には多くのメニューが掲げてありましたが、「カツ丼」 というと 「今できまっしぇん」、「じゃカレー」 というと 「それもできまっしぇん」 と何をオーダーしても 「できまっしぇん!」。「じゃぁ今、何ができるんですか?」 と若干むかつきながら尋ねると、「朝定食だけ」 と・・・。
「それ早く言えよ・・・」 とぶつくさ言いながら待っていると、ほどなく、具だくさんの味噌汁、ご飯、漬物、納豆、海苔、という自宅の朝ごはんみたいな食い物が出てきた。それでも、空腹も手伝ってか、とても美味くて値段も安い。貧乏旅行の私にとっては、思いがけないごちそうでした。確か、「美味いとは言わないけど良い飯だった」 と日記に書いたっけ。
自分で撮ったC12の写真も旅のエピソードもこれだけですが、C12にまつわる話でちょっと思い出したことがあるので、次回、もう少しお付き合いいただきます。
では、また。