21日の発表会で披露した1曲目の 「叱られて」 は大正9(1920)年に作られた古い童謡ですが、もの悲しくも大変美しいメロディーを持つ曲で、90年以上の長きにわたって歌い継がれています。声に出して歌ってみると、メロディーは割と単調でゆったりと流れてゆき、どこで盛り上げたら良いんだろうと思っているうちに終わってしまうような短い曲です。
メロディーラインがきれいな楽曲が好きな私はそっちから入り込むタイプなんですが、最近は曲の世界観を掴むために歌詞の裏に隠された真の意味や作られた経緯などを探るようにしています。早速、ネット検索してみると、「叱られて」 の歌詞にはいくつかの謎(疑問)があると言われていることが解りました。
叱られて 作詞:清水かつら 作曲:弘田龍太郎
(1) (2)
叱られて 叱られて叱られて 叱られて
あの子は町までお使いに 口には出さねど目に涙
この子は坊やをねんねしな二人のお里はあの山を
夕べさみしい村はずれ 越えてあなたの花の村
コンと狐が鳴きゃぁせぬかほんに花見はいつのこと
これが問題の歌詞ですが、(1)の歌詞には、叱られて使いに出された 「あの子」、子守をしている 「この子」、お守されている 「坊や」 と3人の子供達が登場しています。ここで、① 子供を叱ったのは誰か?、② 3人の子供達の関係は?、③ 叱った者と子供達との関係は?、という疑問に突き当たります。
私は、(1)の歌詞とメロディーは子供のころから知っていましたが、悪戯でもして親に叱られた子供が罰としてお使いに出されたんだろうぐらいにしか考えが至りませんでした。
①の疑問については後述します。②では3人の子供達は兄弟という答えを出しそうでが、そうすると、
(1)の歌詞にある「坊や」 という言葉が不自然です。普通、自分の兄弟を 「坊や」 とは呼びません。だから、「坊や」 と残りの二人とは他人ということになります。
年配の方はもうお気付きと思いますが、使いに出された 「あの子」 と子守をしている 「この子」 は、裕福な家に奉公に出された貧しい家の子供達です。(2)の歌詞に 「二人のお里は・・・」 とあることから、この二人は兄弟又は同郷の者だということも解ります。
さらに③の疑問、叱った者と子供達との関係ですが、お守されている 「坊や」 が奉公先の 「おぼっちゃん」 であれば残りの二人は奉公人で間違いなく、おそらく小学生ぐらいの子供ということになります。叱った者との関係については、ちょっと複雑なので①の疑問と共に後述します。
そもそも奉公とは、貧しい家が口減らしのために子供を裕福な家へ住み込ませることで、奉公先では様々な労働を強いられます。ほとんどの場合、労働に対する賃金は無く、最低限の衣食住が与えられるだけです。実家に里帰りできるのも盆と正月の年2回のみで、もちろん、学校なんかには行かせてもらえません。見識も富もある裕福な家に入ることで、行儀作法、一般常識、社会通念等を覚えることができて将来役に立つとはいえ、子供にとっては幼くして親から離され、悲しく寂しい想いだったに違いありません。
(2)の歌詞の 「ほんに花見はいつのこと」 は、故郷の村で花見をしたのはいつだったんだろうか?という解釈と、次に故郷で花見ができるのは一体いつになるんだろうか?という2つの解釈が成り立ちます。あるいは、その両方ということも考えられますが、いずれにしても幼い子供達にとって、奉公先での日々は辛く悲しいものだったと思います。
最後は、①の疑問です。子供を叱ったのは奉公先のご主人とも考えられますが、それは短絡的な解釈のようです。
前時代的な奉公という制度がいつ頃から始まったのか定かではありませんが、少なくとも戦前まで(一部ではそれ以降も)は続いていたようです。奉公人には、じいや・ばあや、下男・下女、にいや・ねえや、女中、丁稚(でっち;関西地方の呼び方で奉公人の少年を指す)、小僧などと呼ばれる(今となっては差別用語のオンパレードですが)老若男女様々な人がいて、奉公先の家でそれぞれに合った仕事を課せられていました。
大きな商家や豪農の家では大勢の奉公人を抱えていて、小学生ぐらいの小僧さんや丁稚どんに用事を言い付けるのは、奉公先のご主人ではなく年かさの奉公人だったのではないでしょうか?。何故かというと、現代に置き換えれば、平社員に仕事を言いつけるのは上役の係長かその上の課長ぐらいまでで、社長が直接命令することはめったにない、ということを考えれば理解できます。
これは他のサイトの受け売りですが、幼い小僧さんを叱ったのはおそらく 「にいや・ねえや」 と呼ばれる十代の奉公人でしょう。同じ叱られるにしても、歳の離れた者より歳の近い者に叱られる方がよぽど悔しい、ということは容易に理解できます。(2)の歌詞の中の 「口には出さねど目に涙」 というくだりが、それを物語っています。
余談ですが、有名な 「赤とんぼ」の歌詞の中に 「十五でねえやは嫁にゆき・・・」 という一節がありますが、15歳で嫁いで行ったのは血の繋がった 「お姉さん」 ではなく、年上の奉公人の 「ねえや」 です。
以上の謎とは別に、この曲のイメージは詞、曲ともに、童謡としては暗すぎるのではないかという疑問もあります(日本の古い童謡には良くあることですけどね)。もしかしたら、作者の実体験に基づくものではないかと思い、「叱られて」 の作詞者である清水かつらのことを調べてみました。その結果、Wikipedia で次の記述を見つけました。
清水かつら(本名;桂)は、明治31(1920)年、東京深川生まれ。4歳で生母と父は離縁し、12歳で継母を迎えて本郷区に転居、父と継母に育てられた。
京華商業学校予科修了後、青年会館英語学校に進学し、大正5(1916)年、書籍や文具を扱う合資会社・中西屋書店(後に丸善が吸収)出版部へ入社した。 中西屋書店は少年・少女向けの雑誌を刊行するため「小学新報社」 を創設、清水かつらは少女雑誌 「少女号」(大正5年創刊)や 「幼女号」、「小学画報」 を編集した。
編集の傍ら童謡の作詞を始め、「靴が鳴る」(大正8(1919)年)、「叱られて」(大正9(1920)年)、「雀の学校」(大正10(1921)年)などを発表し、戦後の昭和23(1948)年には、新時代を象徴するような 「みどりのそよ風」を発表、文部省唱歌に選ばれて今でも人気が高い。大正12(1923)年、関東大震災で家を失い、継母の実家に近い埼玉県白子村・新倉村(現・和光市)に移住し、この地で生涯を終えている。
この記述から、作詞者の清水かつらは奉公に出されたことはないと思われますし、この曲が発表された時期には東京の本郷区(現・文京区)に住んでいたようです。清水家に奉公人がいたかどうかは定かではありませんが、この時代、奉公人がいる家はごく当たり前にあったようなので、周囲でよく見聞きする出来事を第三者的に俯瞰して詩を書いたのではないかと思う次第です。
つまり、「よくある話だけど悲しいことだよね」 という感情を込めて詩を作り上げ、作曲者の弘田龍太郎もこれをくみ採って、抑揚の少ない、ゆったりした曲調に仕上げたのではないかと推察します。
なぜ、このようなことを延々と書き連ねているかというと、叱った者、叱られた者、それを客観的に見聞きしている者と、誰を主体にして歌うかによって情感の込め方が異なり、それによって曲全体の微妙なニュアンスにも影響を与えると思うからにほかなりません。偉そうなことを言っても、そう簡単にできる事ではありませんけどね・・・。
この作業は、模型製作の過程で、基本塗装後に如何にお化粧を施すかによって出来が違ってくる、ということに似てますね。
では、また。