D61形は、保存機も含めて実機を見たことはありませんが、1形式での最大輌数を誇ったD51の写真はたくさん残っています。
先ずは、大変珍しいこの写真です。何が珍しいって、ここは鶴見ですよ。東海道本線のツルミ!。
といっても、本線上を走っているのではなくて高島線という貨物線。Wikipedia に 『東海道本線の貨物支線のうち、神奈川県横浜市鶴見区の鶴見駅から同市神奈川区の東高島駅を経由し同市中区の桜木町駅を結ぶ鉄道路線及びその支線の通称である。』 という記述があり、路線図もあったので転載させていただきました。
生きているD51と出会ったのは、おそらくこれが初めてだと思います。
撮影時期は、当初、判然としなかったのですが、これも Wikipedia に 『1970年(昭和45年)10月1日、高島線における蒸気機関車の通常運行廃止、無煙化完了。』 という記述があり、中学2年の秋口ではないかと思います。余談ですが、この貨物線には首都高速1号線(羽田線)をアンダークロスする場所があり、無煙化が完了するまで、首都高速上に 「黒煙注意」 の標識がありました。
さて、次は満を持して?、伯備線のD51をご紹介します。伯備線は、山陽本線の倉敷から山陰本線の伯耆大山(ほうきだいせん)に至る、延長:138.4㎞に及ぶ路線で、山陽地方と山陰地方を結ぶ陰陽連絡路線の一つでもあります。倉敷・新郷間は高橋川水系、上石見・伯耆大山間は日野川水系に沿っていて、全線にわたって曲線と急勾配が多いことでも有名です。
伯備線には、1972年(昭和47年)、中3と高1の間の春休み、初の九州撮影行に併せて訪問しました。このときは、東京から夜行列車で岡山へ、伯備線の気動車に乗り換えて新見へというルートで、先ずは新見機関区を訪れました。新見機関区には大きなラウンドハウス(扇形庫)があり、上の写真にも、機関車の左後方にターンテーブル(転車台)とラウンドハウスの一部が写っています。
ラウンドハウスには、集煙装置付きのD51が並んでいました。
上の写真を拡大しました。428号機だけが何故か手入れが行き届いていて、煙室
扉はピッカピカ。大型の集煙装置が付くと、武骨な山男の感じがして良いです。
今となっては、撮影場所の特定は困難ですが、周囲の状況から伯備線の沿線であることは間
違いありません。おそらく、布原信号所と備中神代駅との間と思いますが、確信は持てません。
バック運転でやって来た前の写真の列車が、眼前を通過して行きます。
伯備線といえば、何といってもD51の三重連が有名で、布原信号所付近は絶好の撮影ポイントでした。しかし、私が訪れる直前の1972年3月12日、残念ながら三重連の運転は終了していました。
それでも、前部又は後部補機による重連運転は続いていて、後部補機を一緒に入れた形で写真を撮りたいと思い、開けた場所で大きなカーブのあるポイントを地図で探しました。その結果、白羽の矢を立てたのが備中神代です。ここは、伯耆大山方面に向かって北西方向に駅を出るとすぐに、右にほぼ 90度向きを変える大カーブがあります。
そこで撮ったのが、コレっ!。かなり長い貨物列車で、後部補機(しかも逆向き)も入れて撮るの
に苦労しましたが、本務機が通り過ぎる寸前のタイミングで、目論みどおりの写真が撮れました。
夕刻、備中神代駅を出発するD51前部補機重連の貨物列車。
この写真を撮り終えて、次の目的地の北九州に向かうため、岡山行きの列車に乗りましたが、ここで大事件発生!。伯備線の列車は、倉敷から山陽本線の上り線へ入って岡山へと向かうんですが、岡山駅の直前で、踏切上で立ち往生していた車と衝突!。
私は先頭の気動車に乗っていたんですが、突然、急ブレーキをかけたかと思うと、ガガガガガーという大きな音と振動・・・。間もなく、誰かが 「車が下敷きになってるゾ~」 と叫ぶ声も聞こえてくる。窓を開けて下を見ると、台車付近にテールライトをつけたままの自動車の後部が見えました。
岡山からは、東京発・西鹿児島行きの急行 「桜島」 に乗り継ぐ予定だったので、いつになったら復旧するのかと気が気ではありませんでした。その後、列車は台車の下に自動車を噛み込んでいること、周囲は田んぼで重機が入れないことが判明し、こりゃぁ 「桜島」 への乗り継ぎは無理か?と考えながら待っていました。なにしろ、この事故で山陽本線の上り線は不通になっていますが、下り線は何ともないので、「桜島」 は定刻どおりにやって来る。
その晩は岡山泊まりかと覚悟しかけた頃、気動車は最徐行で動き出し、無事岡山駅のホームへ。それと間髪を入れず、向かい側の下りホームに 「桜島」 が入ってきました。脱兎のごとく駆け出して跨線橋を渡り、なんとか 「桜島」 への乗り継ぎには成功しました。
元々、岡山でゆっくり夕食をとろうと思ったのと、北九州までの距離が近いので岡山発が一番遅い 「桜島」 を選んだことで、乗り継ぎには2時間ぐらいの余裕があったんです。それで、なんとか間に合った訳ですが、岡山では何も買えず、その先は深夜になるのでホームの駅弁売りも居なければ、車内販売も無し。この日の晩飯は食いっぱぐれました・・・。
翌朝、「桜島」 は定刻どおり九州へ入りました。当初はこれで博多まで行くつもりだったんですが、夜行列車の2連チャン、普通車の直角シートに二晩揺られてヘトヘト。それに加えてお腹もペコペコ。
予定を変更して黒崎で下車し、ホームの立ち食いそば屋で名物の 「かしわ(鶏)うどん」 を食べ、漸く人心地つきました。次の電車で博多まで行ったんですが、まだ疲れが残っていて、下車するとすぐにホームのベンチにへたり込んでしまいました。
乗って来た電車も博多に10分ぐらい停車していて、それを見送ってしばらくしてから立ち上がると何かおかしい。カメラの入ったショルダーバッグは携えているものの、リュックサックがない!。
「しまったぁ!、電車に置いてきちまったぁぁぁ~」 と嘆いてみても、もう遅い。仕方なく、駅員室に駆け込んで事情を説明すると、程なくして荷物は無事発見されました。「鳥栖駅で降ろしたから、急ぐのであればそちらへ取りに行ってくれ」 と言われ、一も二もなく鳥栖へ・・・。
30分ほど電車に揺られ、鳥栖駅で荷物を受け取った後、まだ時間があるので博多から篠栗線経由で筑豊へ向かおうと、上り電車に乗ったんですが爆睡してしまい、気が付いたらまた黒崎。今日はもう無理だぁ、と諦めムードでまたもホームの 「かしわうどん」。記念すべき九州一人旅の第一日目は、鹿児島本線を行ったり来たりしただけで宿へ・・・。
この写真も撮影時期・場所ともに判然としなかったんですが、車番(D51-42)から 1972年(昭和47年)春の筑豊本線と判明。場所は、中間駅周辺の三線区間ではないかと思います。三線区間とは、文字どおり複線と単線を組み合わせた珍しい線路配置ですが、手前の複線が石炭輸送用の貨物線、D51が走っている線路が単線の旅客用です。
数あるD51のうち、初期に製造された95両は、ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水加熱器を軸線方向に置き、それらを長いカバーで覆っていることが外観上の特徴です。その後の通常形ドームとの区別のため 「半流線形(半流形)」 と呼ばれるようになり、その形状から 「ナメクジ」 の通称でも呼ばれました。42号機もこの初期型のグループに属するものです。
元は東北で使われていた機関車ですが、1930年代、筑豊本線の直方機関区へ転属しています。後に45号機と共に南延岡機関区に転属、昭和49年(1974年)6月12日、僚機となった45号機と共に廃車となりました。この42号機と45号機の2輌が九州最後のナメクジでした。
Models IMONの42号機のモデル(HOn3 1/87 12㎜ゲージ)。あまりに美しいので、転載しました。
― (その3)に続く ―